1995-1996シーズン

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1995-1996シーズン

【1995-1996総括】

1991-19921シーズンから昨シーズン(1994-1995シーズン)まで、日本代表の監督はそのシーズンの日本リーグ優勝監督が指揮を執り、世界選手権Bプールなどを戦いました(リレハンメルオリンピック最終予選やアジアカップなどを含む)。
しかし、1995-1996シーズンからは、日本リーグ優勝監督が日本代表監督になることはなくなりました。1995年8月2日、デーブ・キング氏が長野オリンピックの日本代表監督に決まったことを記者発表したからです。
デーブ・キング氏は、1947年12月22日カナダに生まれました。当時までの主な監督歴としては、チームカナダの監督を8シーズン務めました。その間、サラエボ、カルガリー、アルベールビルの3回のオリンピックの指揮を振るいました。その後、1992-1993シーズンから3シーズン、NHLのカルガリー・フレームスの監督を務めました。
長野オリンピックまで2年半、今後、フルタイムの監督になるのか、カナダと日本を行き来するのかなどの細かい契約は年内に行われることになりました。
「キング・ジャパン」の本格的な始動は1995年12月27日から29日までフランスで行われたモンブランカップでした。平均年齢23.5歳の若手選手で編成した日本代表は、3戦全敗に終わりましたが、世界レベルを肌で感じレベルアップにつながりました。
続いて2月5日から8日まで中国・ハルピンで開催されたアジア冬季大会に参加しました。韓国と中国は勝ったもの、カザフスタンに敗れ、2位に終わりました。しかし、シーズン中でもありケガ人が多く17人で戦わざるを得ない中、強敵カザフスタンに善戦したことは若手選手の今後に大きな期待を持つことができました。
そして、このシーズンの集大成ともいえる1996世界選手権Bプールでは、最下位に終わりCプール降格となってしまいました。白星は奪えず、ポーランド、イギリス、デンマークと引き分けて勝点は3のみでした。しかし、失点が前回の45から今回は30と大幅に少なくなったことは、勝ち星は得られませんでしたが、チーム力が向上している証と見られました。
長野オリンピックへ向けての強化は継続的に行われました。26歳以下の37人と20歳以下の37人、計54人を集めた強化指定選手合宿や学生選抜合宿、日本女子選抜強化合宿などが行われました。また昨シーズンに続き、日本リーグ6チーム所属の若手選手で編成されたチームが、日本リーグチームをはじめ大学選抜チームや各地の高校選抜チームなどと対戦する若手教育リーグも、ジュニアオールスターの2試合を含め30試合行いました。
女子も1995年8月に全日本選抜強化合宿を行いました。2月9日から11日まで行われたアジア冬季アジア大会において女子日本代表は中国には敗れたもの、カザフスタンには勝利し、銀メダルを獲得。また1996年4月1日から6日までカナダで行われた1996パシフィック女子選手権に参加しました。長野オリンピックを目指し、国際試合や海外合宿を行うなど、関係者のバックアップで強化を図っていきました。
選手への直接強化だけではなく、レフェリーの向上やコーチの教育も図りました。スウェーデンとフィンランドからそれぞれ1名ずつ2名のレフェリーを招き、日本リーグなどで笛を吹きました。また、コーチングスタッフの教育のために、デーブ・キング氏に時間を割いてもらいました。
長野オリンピックへの選手の参加に関してですが、NHLプレーヤーについて1995年9月26日、NHLオーナーサイドがNHLPA(選手会)の諸条件を受け入れること了承。翌30日正式決定されました。カナダ、アメリカ、ロシアはNHL選手でチームを編成。チェコ、スウェーデン、フィンランドはNHL選手と自国の国内トップリーグの選手との混成でチームを編成すると思われます。この6カ国は、まさに「ドリームチーム」となり、バルセロナオリンピック(夏季大会)のバスケットボールではアメリカ代表のみがドリームチームでしたが、長野オリンピックではドリームチームが複数あり、「ドリームオリンピック」となる模様になりました。
普及・発展の施策も行いました。関係者の努力によって、第1回オールドタイマーが1996年3月1日から2日まで宮城・仙台で開催されました。また、国際アイスホッケー連盟の指示のもとインラインホッケーが世界的に急速な発展と拡大を見せており、日本アイスホッケー連盟も委員会を設け現状をリサーチし、将来へ向けての取り組みを始めました。
さて最後になりましたが、日本リーグですが、昨シーズン(第29回日本リーグ)は日系人選手が採用されました。今季(第30回日本リーグ)から、第18回日本リーグを最後に、姿を消した外国人選手が復活しました。またレギュラーリーグはこれまでは各チーム30試合でしたが40試合に増えました。試合数を増やしたことにより1試合当たりの入場者数は減りましたが、総数では161,8461人から194,597人と増員しました。

【1995-1996日本代表】

モンブランカップが初陣となった「キング・ジャパン」。1996年2月4日から11日まで中国・ハルピンで開催された第3回アジア冬季大会に臨み、アジアチャンピオンの座の奪回を目指しました。初戦でカザフスタンと対戦。世界選手権Aグループぐらいの実力の持ち主のカザフスタンに立ち向かいましたが、1-4で敗れました。続く、韓国に6-1、中国にも7-1と勝利し、銀メダルを獲得しました。ちなみに中国戦の白星はアジア冬季大会における対中国初勝利でした。
ソ連の崩壊により実力国が毎シーズンCプールからBプールに昇格してくるため、「Cプールへの転落」の危機にある日本代表。「Bプール残留」を第一目標に1996年4月10日から20日までオランダ・アイントホーヘンで開催された世界選手権Bプールに参加しました。初戦のポーランドに3-3と引き分けてまずまずのスタートとなりましたが、第2戦のラトビア(1-6)、第3戦のスイス(2-7)、第4戦のオランダ(1-2)と3連敗。第5戦のイギリスに3-3と引き分けてB残留に望みを残しました。第6戦のベラルーシに2-7と敗れ、B残留は最終デンマーク戦が大一番となり、2-2と引き分けました。この結果、デンマーク、オランダ、日本が勝点3で並び、当該対戦成績によって、日本が最下位となりCプール転落となりました。この大会では1点に泣く試合が多く、1点の大切さが知らされました。

ジュニア日本代表は1995年12月28日から1月4日までポーランドで開かれた1996世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。これまでは1回総当たりで順位を決めていましたが、今大会では4チームずつ2グループに分けて予選リーグを行い、各グループ上位3チームが決勝ラウンドへ、4位同士がB残留を賭けて戦うことになりました。予選リーグ初戦のオーストリアに3-1と勝利したもの、第2戦のポーランドに0-9、第3戦のハンガリーに1-7と連敗しました。しかし、1勝2敗で決勝リーグへ進出、B残留を決めました。決勝リーグでは、ラトビアに2-4、イタリアに4-5、ノルウェーに3-5と3連敗。通算6位に終わりました。

アジア・オセアニアジュニア日本代表は1996年3月19日から22日までカザフスタンで行われた1996アジア・オセアニアジュニア選手権に参加しました。日本は初戦の中国に5-1と勝ったものの、第2戦の韓国に2-4、第3戦のカザフスタンに4-8で敗れ、3位に終わりました。
女子日本代表の今季のビッグイベントはアジア冬季大会と1996パシフィック女子選手権でした。1996年2月4日から11日まで中国・ハルピンで開かれた第3回アジア冬季大会に参加しました。国際大会初出場のカザフスタンが初戦の相手でしたが、スピードとスキルで上回り6-2と快勝。続く、中国には3-9で敗れ、2位止まりでした。初顔合わせとなったカザフスタン。この後、一時期、日本の前に立ち塞がる相手となることはこの時点では知る由もありませんでした。
アジア冬季大会に続き、1996年4月1日から6日までカナダ・リッチモンドで開催された1996パシフィック女子選手権に参加しました。この大会は1997世界女子選手権の出場予選を兼ねており、上位3カ国に出場権が与えられました。予選リーグで日本は初戦のカナダに0-12、第2戦のアメリカに0-16と完敗。第3戦の中国にも1-4で敗れ、予選リーグを終えました。決勝トーナメントの初戦のカナダに0-18と大敗。3位決定戦の中国にもあと一歩及ばず1-5で敗れました。対中国に2連敗と結果は残せませんでしたが、「中国が手の届くところまで来ている相手」と認識できた大会でした。

【1995-1996主なJIHF主催大会】

第63回全日本選手権Aグループ(1996年1月12日~15日@北海道・札幌)

前回までの日本リーグ6チームに大学2チームを加えた大会方式から、日本リーグ6チームのトーナメントに変更して行われました。前回優勝の新王子製紙と2位コクドはシードされ、準決勝からの登場となりました。1回戦は日本製紙クレインズが雪印を2-1で破り準決勝でコクドと対戦。西武鉄道は古河電工を5-1で破り、新王子製紙と戦うことになりました。コクドが7-3で日本製紙を破れば、新王子も6-4で西武を撃破。決勝戦は3年連続新王子対コクド戦となりました。決勝は5-1と新王子が完勝。史上3回目の5連覇(通算31回目の優勝)を達成しました。

第30回全日本選手権Bグループは1996年2月16日から18日まで釧路で16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で八戸市庁が日本製紙都島工場を8-2で破り、2年連続3回目の優勝を成し遂げました。

第15回全日本女子選手権(1996年2月23日~25日@北海道・札幌)

16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝に駒を進めたのは、1回戦でリーフス、準々決勝で真駒内レディース、準決勝で釧路六花亭ベアーズを破った岩倉ペリグリンと、1回戦で中日レディース、準々決勝でレッドパレッツ、準決勝でコクドレディースを破ったスポーツシステム・ファイターズでした。昨シーズンまで9年連続して岩倉ペリグリンとコクドレディースとの間で争われた女王の座。今大会では2強の一角が崩れました。決勝戦は、岩倉ペリグリンが女王の貫禄を見せつけ7-0とシャットアウト。3年連続7回目の優勝を飾りました。

第30回日本リーグ(レギュラーリーグ:前期1995年9月30日~11月26日・6チーム4回戦総当たり、後期1995年12月2日~1996年3月10日・6チーム4回戦総当たり/プレーオフ:1996年3月16日~24日・5試合3戦先勝方式)

昨季リーグ(第29回日本リーグ)同様、レギュラーリーグは前後期制で行われ、その勝者同士がプレーオフで対決して日本リーグの覇権を争う方式で行われました。試合数(レギュラーリーグ)も第16回日本リーグから各チーム30試合でしたが10試合増え、今季は前後期20試合ずつの計40試合になりました。
そして一番の変更点は、外国人選手の解禁でした。第18回日本リーグを最後に、姿を消していた外国人選手。当時は、元ソ連代表のV・スタルシノフやV・シャドリン(ともに元王子)、元カナダ代表のT・オマリー(元国土)、元チェコ代表のE・ノバック(元古河)、さらにNHLのトッププレーヤーとなったD・サター(元岩倉)など、名プレーヤーが席巻しました。
外国人選手復活となった第30回日本リーグでもビッグネームが登場しました。西武のT・カーバースはバリバリのNHLプレーヤー。雪印したP・ゲフェルトは1994リレハンメルオリンピックと1995世界選手権にチェコ代表として出場した選手でした。彼ら以外も代表クラスの選手が目白押しで、勢力図が大きく変わる可能性も考えられました。なお、コクドは唯一、外国人なしのチーム編成でリーグに臨みました。
前期リーグは勝点28で並んだ新王子とコクドが19試合目に直接対決。延長戦の末、王子が4-3で破り前期を制しました。後期リーグは中盤から西武とコクドのマッチレースになりました。雌雄を決する3月10日の最終戦は会場の東伏見アイスアリーナは過去最多の4,676人が足を運びました。大観衆が見守る中、西武が3-2で勝利し、後期優勝を飾りました。
前期は新王子、後期は西武が制したレギュラーリーグでしたが、古河の躍進も特筆すべきことでした。昨季リーグは開幕から29連敗。最終戦で雪印に1-1で引き分けて連敗をストップした最悪のリーグとも言えました。また、これまでの古河は5チーム時代の第4回日本リーグから第6回日本リーグの4位が最高。6チームとなった第9回日本リーグ以降は、4位以上になったことはなく5位または6位と低迷していました。しかし、第30回日本リーグは一味も二味も違っていました。前期は7勝1分12敗、勝点15の4位。後期リーグも7勝13敗、勝点14の4位。トータル14勝1分25敗、勝点29の4位は過去最高の成績となりました。
さて新王子と西武で覇権を争ったプレーオフ。第1戦は4-2、第2戦は延長戦の末に7-6、第3戦は5-2と、西武がプレーオフ史上初の3連勝で15シーズンぶり8回目の優勝を飾りました。西武の優勝により、日本リーグは新王子・コクドの二強時代から新時代の幕開けとなったと言えました。

第51回国民体育大会(1996年1月26日~29日@栃木・日光)

成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で東京が栃木を8-2で破り2年連続16回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を3-2で破り8年連続46回目の優勝を成し遂げました。

第1回全日本オールドタイマー大会(1996年3月1日~2日@宮城・仙台)

8チームが参加して、トーナメント方式で行われました。大会の参加資格は1950年1月1日以前生まれの45歳以上で、日本代表や日本リーグなどで活躍した往年の名選手もいました。決勝は長野ドリームズと八戸シニアクラブが戦い、長野ドリームズが6-1で勝利し、初代チャンピオンに輝きました。ちなみに長野ドリームズにはソ連代表や日本リーグの王子で活躍したユーリ・リャプキンもメンバーとしてプレーしました。

第68回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1996年1月6日~9日@北海道・釧路)

30校が参加。決勝戦は2回戦で上智、準々決勝で日本大、準決勝で法政を破った東洋と、2回戦で室蘭工業、準々決勝で早稲田、準決勝で大東文化を破り5連覇を目指した明治が4年連続して対戦。東洋が1点を巡る攻防を制して4-3で勝利し、9年ぶり2回目の優勝を成し遂げました。

第45回全国高校選手権・インターハイ(1996年1月19日~23日@群馬・伊香保)

26校が参加。決勝は5年連続して駒大苫小牧と釧路江南の同じ顔合わせになりました。駒大苫小牧は2回戦で八戸、準々決勝は白樺学園、準決勝で釧路工業を破り決勝へ進出しました。一方、釧路江南は2回戦で苫小牧工業、準々決勝で埼玉栄、そして準決勝で八戸工大一に勝利し勝ち上がりました。決勝戦は1ピリに1-2とリードを許したものの駒大苫小牧が逆転。12-4の大差で3年連続15回目の優勝を飾りました。

第16回全国中学校アイスホッケー大会(1996年2月5日~8日@福島・郡山)

16チームが参加して行われました。決勝は1回戦で長野広徳、準々決勝で日光東、準決勝で千葉県選抜を破った釧路緑陵と、1回戦で軽井沢、準々決勝で神奈川県選抜、準決勝で日光を破り勝ち上がった宮城県選抜が対決。決勝に進んだ宮城県選抜ですが、北海道勢と日光勢以外の地域が決勝に進出したのは初めてのことでした。決勝では釧路緑陵が9-0で勝利し、初めて栄冠を手にしました。

第20回全日本少年アイスホッケー大会(1996年3月29日~31日@長野・軽井沢)

小学生の部
12チームが参加。釧路選抜は2回戦で神奈川県選抜、準決勝で札幌選抜を破り決勝進出。苫小牧選抜は2回戦で青森県選抜を、準決勝で東海・信越選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では釧路選抜が4-3で勝利し、3年連続5回目の優勝を飾りました。
中学生の部
12チームが参加。2回戦で栃木県選抜、準決勝で帯広選抜を破った苫小牧選抜と、2回戦で青森県選抜、準決勝で神奈川県選抜を破った苫小牧選抜との間で行われました。決勝では苫小牧選抜が帯広選抜を3-1で破り、2年ぶり8回目の優勝を成し遂げました。

【その他の大会・出来事】

1995パシフィックカップ

昨シーズンはメキシコで開催されたパシフィックカップ(昨季の名称は1994メキシコカップ)が、1995年8月2日から7日まで、2年ぶりに日本で開催されました。参加国はこれまで通り、ロシア、カナダ、アメリカ、日本の4カ国。予選リーグで日本はカナダ(初戦)に3-8、ロシアに2-9(第3戦)と敗れましたが、第2戦のアメリカに2-2と引き分けました。準決勝でカナダに0-11、3位決定戦でアメリカに0-7で敗れ4位に終わったものの、アメリカとの引き分けは大健闘でした。なお、今大会のロシア代表監督はウラジミール・シャドリン氏。ソ連代表として札幌とインスブルックの両オリンピックに出場するなどの実績を引き下げて来日。1979-1980シーズンから4シーズン王子製紙でプレーし、数々の日本リーグ記録を打ち立てた、記憶に残る名プレーヤーでした。

モンブランカップ

デーブ・キング日本代表監督の「初陣」となったモンブランカップ。1995年12月27日から29日までフランスで開催されました。参加チームはフランスとポーランドはナショナルチーム、ロシアはナショナルB代表でした。初戦のフランス戦(2-6)から最終戦のポーランド戦(1-3)まで、日本は3連敗に終わりました(第2戦のロシア戦は0-5)。しかし、「世界の強豪相手に失点が少なかったのは評価できます。世界を肌で感じ取ってくれたと思います」とデーブ・キング監督は成果を話しました。

第1版:2025年9月30日・記

<主な参考文献>
日本アイスホッケー年鑑 平成7年-平成8年 第15号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1995年10月号、11月号、12月号、1996年1月号、2月号、3月号、4月号、5月号、6月号、7月号(発行:ベースボール・マガジン社)
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