1993-1994シーズン

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1993-1994シーズン

【1993-1994総括】

1994年2月に開催されるリレハンメルオリンピック出場権獲得が最大目標の日本代表。1993年8月29日から9月3日までイギリス・シェフィールドで開かれた最終予選に参加しました。結果はイギリスに勝利したものの1勝3敗に終わり、オリンピック出場権を獲得することはできませんでした。
残念な結果に終わりましたが、リレハンメルオリンピック出場権を逃したことにより、93-94シーズンから次期オリンピックである1998長野オリンピックを見据えた強化を本格的にスタートすることになりました。
デーブ・キング、デーブ・チャンバー、ウォーリー・コザック氏ら6コーチを招き、日本リーガー、大学生、高校生の68人の若手を対象に7月24日から31日まで帯広で夏合宿を実施しました。この合宿では、年長組(アンダー23・20歳から23歳)はカルガリー合宿への、年少組(17歳から19歳)はパシフィックカップへの選考も行われました。
アンダー23にとって初の海外強化合宿は8月11日から20日までカナダ・カルガリーで行われました。この合宿では、日系人のライアン・フジタも参加。さらに、村岡浩弥(雪印)と宮内史隆(コクド)の2人がデーブ・キング氏の目に留まり、帰国予定を遅らせカルガリー・フレームスのルーキーキャンプに参加しました。
さらに中期計画の一環として、若手強化は夏だけではなく、ナショナルBチームの性格を持つ24歳以下のチームを編成し、1994年4月には、日本アイスホッケー界としては初の訪問地となるカザフスタンへ遠征。ナショナルチームを含め5試合の強化試合を行いました。
長野オリンピックに向けた強化は男子だけではなく、女子も行われました。長野オリンピックと、直近の1994世界女子世界選手権アジア予選会に向けた全日本女子選抜強化合宿がカナダからリック・ポルトニック氏をコーチとして招聘し1993年12月2日から12日まで帯広で行われました。
強化以外においても他の国内スポーツに遅れを取らないようにと、日本アイスホッケー連盟内部に「日本アイスホッケー活性化委員会」を設け、アイスホッケーの多角的検討と改善、そしてその努力を行っていくことになりました。

【1993-1994日本代表】

1994年2月に行われるリレハンメルオリンピック出場を目指す日本代表。出場切符を得るための最終予選が1993年8月28日から9月4日までイギリス・シェフィールドで行われました。この大会に向け、第1次合宿を札幌、第2次合宿を苫小牧で行い、さらにカザフスタンを招いての3試合の強化試合が組まれました。
スロバキア、ラトビア、イギリス、ポーランド、日本の5カ国が参加した最終予選会。1位にならなければオリンピック行きの切符を手にすることはできません。また対戦相手はNHLプレーヤー7名を擁するスロバキアをはじめ、Aプールレベルの国々であり、厳しい戦いが予想されました。
結果は第2戦のイギリスには4-2で勝ったものの、初戦のスロバキア(2-7)、第3戦のポーランド(4-6)、第4戦のラトビア(1-7)に敗れ1勝3敗に終わりました。80年代から90年代にかけて日本代表の中心メンバーであったベテラン選手をメーンにチーム編成し臨んだ日本。多くの選手にとって「ラストチャンス」を生かすべく奮闘したものの、オリンピック出場は幻に終わりました。
リレハンメルオリンピックが終わると、オリンピックに関しては世界中が次期オリンピックの長野に向けの号砲が鳴りました。日本代表にとって長野へ向けて皮切りの場とも言える1994世界選手権Bプールが1994年4月7日から17日までデンマーク・コペンハーゲンで行われました。
日本は初戦のポーランドに1-6、第2戦のスイスに3-9、第3戦のラトビアにも3-9と3連敗の最悪のスタートとなりました。しかし、ここから巻き返し、第4戦のルーマニアに7-4、第5戦の中国に14-2、第6戦のオランダは2-2の引き分けに終わりましたが、最終戦のデンマークに7-5と引き分けを挟んでの3連勝。3勝1分3敗の4位で終えました。
旧ソ連の解体のより、今大会2位となったラトビアをはじめ、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンなど独立した元ソ連の国は、一部の国を除き1993年からCプール入りしています。毎年1カ国はCプールを勝ち上がりBプールへ昇格してきます。さらにチェコスロバキアから分離・独立したスロバキアもCプール入りしており、Bプールへ昇格してくるのは間違いありません。実際、1994世界選手権Cプールでは1位・スロバキア、2位・ベラルーシ、3位・ウクライナ、4位・カザフスタンになっており、これらの国が上位を占めていました。これらの国々はAプールの実力を持っていると思われ、Bプールに昇格してくれば、Bプールのレベルが上がり、日本にとっては強敵が増えることは間違いありません。
ジュニア日本代表は1993年12月27日から1994年1月5日までルーマニア・ブカレストで行われた1994世界ジュニア選手権Bプールに参加しました。Aプールから降格の日本の初戦の相手はCプールから昇格してきたウクライナ。2ピリまでは互角に戦いをしたものの0-3で敗れました。第2戦のルーマニアは4-3で勝利しましたが、第3戦のポーランドには4-6、第4戦のフランスに3-4と連敗。第5戦のオーストリアに4-3と勝ったものの、第6戦のイタリア(5-7)、第7戦のノルウェー(1-3)に連敗し、2勝5敗の7位に終わりました。成績的に7位と今一つでしたが、ウクライナ戦を除く6試合が2点差以内の接戦。それだけに上位に行けるチャンスもあれば、下位に落ちることもありうる状況でした。
そして、ジュニアの世界でも旧ソ連崩壊とチェコスロバキアの分離の影響が如実に出ていました。Cプールから昇格してきたウクライナが全勝優勝をし、Aプールへ昇格していきました。スロバキアもCプールで優勝しており、次シーズン(1994-1995シーズン)はBプールで戦います。旧ソ連の国々などの進出により、ジュニアの世界でも勢力図が大きく変わることは間違いなさそうです。

アジア・オセアニアジュニア日本代表は1994年3月20日から26日まで中国・北京で行われた1994アジア・オセアニアジュニア選手権に出場しました。参加国はカザフスタン、韓国、中国、オーストラリア、日本の5カ国。日本は初戦のオーストラリアに27-0で勝ちましたが、第2戦の韓国に8-8の引き分け、第3戦の中国に6-4と勝ったものの、最終戦のカザフスタンには1-11で敗れ、2勝1分1敗の3位に終わりました。日本は過去10年、1位8回、2位2回と3位以下になったことがありませんでした。しかし、昨季同様カザフスタンに太刀打ちできないだけではなく、初めて3位となってしまいました。

女子日本代表の最大目標は1994年4月11日から17日までアメリカ・レークプラシッドで行われる1994世界女子選手権に出場することでした。そのためにはアジア代表選考大会で中国に勝つことが不可欠でした。目標達成に向け、1993年の12月に選抜強化合宿、大会前の直前合宿などを行い、アジア代表選考大会に備えました。1994年3月11日から13日まで帯広で行われたアジア代表選考大会。当初、参加国は中国、北朝鮮、日本の3カ国でしたが、北朝鮮がキャンセルしたため、日本と中国の2カ国で争われました。初戦2-6、第2戦1-7と2連敗に終わり、1994世界女子選手権の出場権を獲得することはできませんでした。しかし、試合内容はこれまでと違い、中国との差が縮まっていることは、選手たちはもちろんのこと、関係者の誰もが感じ取っており、今後の成長がより期待されました。

【1993-1994主なJIHF主催大会】

第61回全日本選手権Aグループ(1994年3月1日~6日@北海道・札幌)

前回大会に続き日本リーグ6チームと大学2校(前回大会4位の明治大学と早稲田大学)の8チームのトーナメント方式で行われました。
1回戦の組み合わせは、前回優勝の新王子製紙対早稲田大、明治大対日本製紙クレインズ、コクド対古河電工、前回準優勝の西武鉄道対雪印でした。新王子は早稲田大に15-1、日本製紙は明治大に5-2、コクドは古河に6-1と勝利し準決勝に進出。残る1試合の雪印対西武は延長戦にもつれた末、雪印が4-3で西武を下し準決勝に駒を進めました。
準決勝は新王子が日本製紙を7-4、コクドが雪印を5-1で破り決勝戦へ進出しました。1カ月前に幕を閉じた第28回日本リーグ・プレーオフファイナルと同じ顔合わせとなった新王子対コクドの決勝戦。第3ピリオドに新王子が逆転し、4-3でコクドを下し、3シーズン連続29回目の全日本選手権のタイトルをものにするとともに、7シーズンぶりに日本リーグと全日本選手権の二冠達成となりました。

第28回全日本選手権Bグループは1994年2月10日から13日まで福島・郡山で16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝で日本製紙JOBがTOYO JETSを4-3で破り、6年ぶり2回目の優勝を成し遂げました。

第13回全日本女子選手権(1994年2月26日~28日@長野・軽井沢)

16チームが参加し、トーナメント方式で行われました。決勝に駒を進めたのは、1回戦でKOBEポートアイランダース、準々決勝で八戸レッズ、準決勝で釧路ファニーダックスを破った岩倉ペリグリンと、1回戦で香椎シルキーズ、準々決勝で札幌ブルドッグファイターズ、準決勝で釧路六花亭ベアーズを破ったコクドレディースでした。8年連続して同じ顔合わせとなった決勝戦は、第2ピリオドに一挙4点を挙げた岩倉ペリグリンが7-4で勝利し、2年ぶり5回目の栄冠を手にしました。

第28回日本リーグ(レギュラーリーグ:1993年10月2日~12月13日・6チーム6回戦総当たり/プレーオフ・セミファイナル:1993年1月10日〜13日・3試合2戦先勝方式/プレーオフ・ファイナル:1994年2月2日~6日・5試合3戦先勝方式)

第28回日本リーグは各チーム30試合のレギュラーリーグとプレーオフで行われました。プレーオフに進出できるのは第27回日本リーグまでのレギュラーリーグ1位と2位だけではなく、3位までとなりました。さらにセミファイナルとして2位対3位、その勝者と1位がファイナルで戦い、覇権を競う形式となりました。
第27回日本リーグでは西武がレギュラーリーグ3位に終わったもの、同2位の王子に勝点差で1まで迫り、コクド・王子の「二強時代」の終焉の始まりかとも思わせました。しかし、第28回日本リーグレギュラーリーグでは2チームが抜け出し、他の4チームとの勝点差を広げ「二強時代」に幕が下ろされることはありませんでした。
2位・新王子と3位・西武とで行われたプレーオフ・セミファイナルは新王子が3連勝でファイナルへ進出。プレーオフ・ファイナルもコクド対王子の「二強対決」に変化はありませんでした。
コクドと王子とで争われたプレーオフ・ファイナル。「攻めの新王子」をイメージチェンジしたかのように堅守が光った新王子。延長戦の末に敗れた第2戦(4-5)以外は、第1戦が5-2、第3戦が3-2、第4戦が4-1と2失点以内に抑え、3勝1敗でコクドを下し3年ぶり13回目の優勝を成し遂げました。

第49回国民体育大会(1994年1月26日~29日@群馬・伊香保)

成年の部は28都道府県が参加し、決勝戦で北海道が青森を5-2で破り2年連続25回目の優勝を飾りました。少年の部では14都道府県が参加し、決勝戦で北海道が栃木を15-2で破り6年連続44回目の優勝を成し遂げました。

第66回日本学生氷上競技選手権・インカレ(1994年1月6日~9日@長野・軽井沢)

29校が参加。決勝戦は2回戦で八戸、準々決勝で立命館、準決勝で中央を破り3連覇を目指す明治と、2回戦で日本体育、準々決勝で同志社、準決勝でPS戦の末に早稲田を破った東洋が2年連続して対戦。明治が3-0で勝利し、3年連続21回目の優勝を成し遂げました。

第43回全国高校選手権・インターハイ(1994年1月18日~21日@福島・郡山)

28校が参加。決勝は3年連続して釧路江南と駒大苫小牧の同じ顔合わせになりました。駒大苫小牧は2回戦で帯広緑陽、準々決勝は水戸短大附属、準決勝で苫小牧東を破り決勝へ進出しました。一方、釧路江南は2回戦で苫小牧工業、準々決勝で軽井沢、そして準決勝で釧路工業に勝利し勝ち上がりました。決勝戦は第1ピリオドの3連続ゴールでペースを握った駒大苫小牧が7-0の完封勝利で、2年ぶり13回目の優勝を飾りました。

第14回全国中学校アイスホッケー大会(1994年2月4日~6日@青森・八戸)

14チームが参加して行われ、過去13回、第7回の日光東が決勝に進出した以外は、北海道同士の決勝対決でした。しかし、今大会では八戸二が決勝へ進出。釧路北に2-5で敗れたものの、健闘を見せました。また、準決勝に八戸二に2-3で敗れましたが、軽井沢も1回戦で苫小牧啓明を4-5で下すなど、北海道の牙城の一角を崩した大会でした。優勝したのは釧路北。1回戦から決勝戦まで安定した戦いで8年ぶり5回目の優勝を手にしました。

第18回全日本少年アイスホッケー大会(1994年3月25日~27日@長野・軽井沢)

小学生の部
12チームが参加。釧路選抜は2回戦で宮城県選抜、準決勝で帯広選抜を破り決勝進出。札幌選抜は2回戦で東海・信越選抜Bを、準決勝で青森県選抜を破り決勝へ進出してきました。決勝では釧路選抜が13-4で勝利し、4年ぶり3回目の優勝を飾りました。
中学生の部
12チームが参加。2回戦で青森県選抜、準決勝でPS戦の末に帯広選抜を破った苫小牧選抜と、2回戦で栃木県選抜、準決勝で札幌選抜を破った釧路選抜との間で行われました。決勝では苫小牧選抜が釧路選抜を9-2で破り、5年ぶり7回目の優勝を成し遂げました。

【その他の大会・出来事】

1993パシフィックカップ

1993パシフィックカップが1993年8月3日から5日まで釧路シリーズ、7日から8日まで横浜シリーズとして、ロシア、カナダ、アメリカ、日本の4カ国が参加して行われました。釧路シリーズは1回戦総当たりの予選リーグを行い、横浜シリーズの決勝トーナメントでは、予選1位対同4位、同2位対同3位の準決勝、そして決勝戦と3位決定戦が行われました。予選リーグは1位・ロシア(3勝)、2位・カナダ(2勝1敗)、3位・アメリカ(1勝2敗)、4位・日本(3敗)の順位となりました。準決勝はロシアが日本を7-4で、アメリカがカナダを4-0でそれぞれ下しました。決勝はロシアがアメリカを10-7で破り優勝、3位決定戦はカナダが8-3で日本を退けました。
日本の試合結果は次の通りです。
予選:日本 3-6 ロシア<1P(0-1)2P(1-0)3P(2-5)>
予選:日本 1-4 カナダ<1P(0-2)2P(0-2)3P(1-0)>
予選:日本 6-7 アメリカ<1P(1-3)2P(3-3)3P(2-1)>
準決勝:日本 4-7 ロシア<1P(1-0)2P(1-4)3P(2-3)>
3位決定戦:日本 3-8 カナダ<1P(1-1)2P(1-4)3P(1-3)>

リレハンメルオリンピック

1994年2月12日から27日までノルウェーで開催されたリレハンメルオリンピック。参加12カ国を6カ国ずつの2組に分けて1次リーグを行い、各組上位4カ国(計8カ国)が決勝トーナメントに進み、金メダルをかけた戦いを繰り広げました。
決勝トーナメントに駒を進めた8カ国は、A組はフィンランド(1位)、ドイツ(2位)、チェコ(3位)、ロシア(4位)、B組はスロバキア(1位)、カナダ(2位)、スウェーデン(3位)、アメリカ(4位)の8カ国。スロバキアを除く、7カ国は世界選手権Aプールが8カ国で構成されていたときからAプールにいた面々でした。スロバキアもチェコスロバキアが1993年1月1日に分離・独立した国であり、実施的にはAプールの実力があり、順当に勝ち上がったと言えました。
準々決勝からの決勝トーナメントは負けたら終わりの一発勝負だけに、試合は予選リーグ以上に激闘の連続で、どこが勝っても不思議ではない戦いとなりました。準々決勝のカナダ対チェコ(3-2)、ロシア対スロバキア(3-2)は延長戦での決着。準決勝のカナダ対フィンランド(5-3)、スウェーデン対ロシア(4-3)も1点を争う試合でした。
そして、スウェーデン対カナダの決勝も大会を象徴するかのように死闘となりました。3ピリで決着がつかず延長戦へ。延長戦でも勝負は決まらず5人ずつのPS戦となりました。ここでも雌雄は決まらず、サドンデス方式のPS戦にもつれ込みました。スウェーデンはピーター・フォースバーグがPSを決め王手を賭けると、カナダはポール・カリヤがネットを揺らすことができず、スウェーデンのオリンピック初の金メダルが決まりました。

1994世界女子選手権

日本はアジア予選で中国に敗れたため出場することはできませんでしたが、1990年、1992年に続き3回目となる1994世界女子選手権が、1994年4月11日から17日までアメリカ・レークプラシッドで、カナダ、アメリカ、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、スイス、中国の8カ国が参加して行われました。試合形式は8カ国を4カ国ずつ2グループに分けた予選リーグを行い、各グループ上位2カ国が決勝トーナメントへ進み、下位2カ国(計4カ国)が順位決定トーナメントに回りました。決勝は3大会同じ顔合わせのカナダ対アメリカとなり、カナダ6-3で勝利し、3大会連続金メダルを獲得しました。

第1版:2025年9月30日・記

<主な参考文献>
日本アイスホッケー年鑑 平成5年-平成6年 第13号(発行:財団法人 日本アイスホッケー連盟)
アイスホッケー・マガジン 1993-1994 No.1、2、4、5、6、7(発行:ベースボール・マガジン社)
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